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絵を描く喜びに支えられて
今からもう十数年前、その頃私は30代の半ばでした。急速に進行していくリウマチとの闘いに、心身共に疲れ果て、家族を東京に残し、中伊豆の病院へ入院して幾日か経った頃、古い友人が見舞って一冊の本を置いて帰りました。 |
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病院の早い夕食をすませ、その本の表紙をめくった時、私は強い衝撃を受けました。それは事故で手足の自由を失い、筆を口にくわえて絵を書く人の詩画集でした。外見は明るく装いながらも、自分の人生に絶望し心の中は涙でいっぱいだったその頃の私は、「たとえいかなる状況の中でも喜びを見いだす生き方がある」ことを教えられ、その夜、私は心の中の何かを洗い流すかのように、一人病室で号泣していました。 |
数か月で退院したある日、ベランダに一輪咲いたバラを眺めながら、ふと、古いスケッチブックをとりだし、色鉛筆で描いてみたのです。それが私の種々の執着を捨てさせてくれる第一歩でした。素直な楽しみをそこに発見できて、私は少しずつ変わっていきました。 |
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7年前伊豆へ引っ越して、春一番にブルーの星をちりばめたように咲くオオイヌノフグリや、初夏のホタルブクロ、秋のミズヒキ、名前も知らない花々との出会いは感動の連続でした。今は少し慣れ親しんでしまいましたが、東京にいた頃どこか違うと感じたあの園芸種のコスモスではなく、秋が来るたびに土手や空き地の何気ない所に少しかたまって咲いているコスモスを見かける時、私の求めていた風景に出会った喜びや、木漏れ日の中に咲くリンドウを見つけた時、気付くと足元に健気に咲いているそんな花々は、私の生を応援してくれているように感じるのです。 |
車椅子での散歩も限界となり手術を決意し、麻酔からというより心停止という死の淵から生還した時、枕元の花や、折りしも外は桜が満開という言葉は私を勇気づけてくれました。それから1年間の入院生活の中でも絵を描く楽しみと喜びが私の生きる力となっていました。その2年後には、絵を描きたいために右肘も人工に換えました。 |
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1枚の小さな絵を描くたびに痛みは増し、明らかに指の変形は進んでいくのですが私は描くことを選んでしまいます。ふと「夕鶴」のつうの物語が脳裏をよぎり、失うものと得るもの、生と死のまるで綱渡りさながら、これからも許される限り描き続けたい、一つの花の神秘的ともいえる美しさの前でたじろぎながらも、花を届けてくれる友人や家族への感謝をこめて。花と向かい合っているその時は、痛みも忘れすべてから解放される神様が与えてくれた時間≠ネのです。 |
そして今、一つの楽しみは、療友たちが気楽に集える心安らぐ空間を造りたいという夢が少しずつ具体化していることです。その時はさりげなく花の絵を壁に掛けよう、道端の草花のよう軋目己主張もせずにひっそりと、しかし確実にいのちを請えてそこに在るように。 |
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関節の痛みと変形のために身体を動かす自由を失った時に、花がとても身近なものになり、じっとみつめていると私に描くよう語りかけてくるようでした。
描くことに集中し、その間すべてを忘れられることは、たとえその後に痛みが増したとしても、それ以上のものを私に与えてくれました。
痛みや不自由の苦しみから逃れようとするのではなく、受け入れ立ち向かわせてくれる生き方へ変えてくれるものとなったのです。
家族の支えと友人の励ましと協力を得て、少しずつ描きためたものの中から、ささやかですが、私にとっては夢のような絵葉書ができあがりました。
この1枚、1枚が見知らぬ人たちの心に連れられて、旅をすることができればどんなに幸せなことでしょう。
生きとしいけるもの、
小さな草花たちへの愛を込めて…。 比嘉 由子 |
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●四季の便箋作品もご覧ください→ |
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● 比嘉 由子 ●
1968年 鳥取大学医学部付属看護学校 卒業
同大学付属病院、島根県や大阪の病院にて勤務 1974年退職
1972年 RA発病。以後30年間に両膝・両股・右肘の人工関節全置換手術、また両顎関節の授動術手術を受ける。歩行困難ではあるが、室内用電動車椅子にて日常を過ごす。
絵は自己流であるが、生きがいを感じる“趣味”として描いている。
●最近の妻の生活状況
妻は読書が好きです。しかし、本なら何でも、というわけでなく、美しいもの、優しいもの、魂を揺さぶるようなもの、そして、絶えず自己の精神世界の向上につながっていくようなもの、などだけを選択しています。
時々、テーブルの上にきれいな花が置かれた時、体調がよいとき、水彩で絵を描いています。花なら何でも好きですが、特に、野の花を好んで、絵の題材にしているようです。
友人・知人達の協力があり、最初は自分用の目的でしたが、絵はがき集や、便箋セットを印刷しました。その後、みんなの薦めもあり、友人や希望者に譲って喜ばれています。
絵を1枚描くのも大変です。これまで特に習ったわけではありませんし、顎の運動制限が強く姿勢の制限もあるからです。とても疲れる一大作業のようですが、1枚仕上げた時の充実感が、又、次の創作へと向かわせるようです。
(比嘉邦雄:『リウマチと共に26年』
(「リハビリテーション」No.401 '98年 鉄道身障者協会)より一部抜粋) |
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